からゆきさん

 この原稿は1ヶ月以上前に途中まで書いて放置していた。その間に東日本大震災が起こった。福島第一原発の復旧では被曝事故が起こるだろうと思っていたが、実際に起きてしまった。3号機で電源ケーブルの敷設工事をしていた作業員3人が、放射能で汚染された水に浸かって作業を行って被曝したものである。作業員は放射線計のアラームが鳴っても止めて作業を続けていたという。作業者が放射線の正しい知識を有していたらこんなことをするはずがない。要するに東電は安全教育もせずに、下請けにノルマを科して強制的に放射線を浴びる環境下で働かせていたとしか考えられない
 全国民が注目している中でこのような被曝事故を平気で起こす東電。新聞記事によると下請けに対するノルマとペナルティーを科す体質を指摘する声もあるし、現場の混乱を指摘する声もある。現場の混乱は事実であろうが、東電の安全無視体質も事実であろう。

 作業者の防護服を新聞の写真で見ると白いタイベック?これって単なる紙じゃないの?手足の袖はガムテープで巻いて、石綿除去作業と同じ格好のような。新聞によると被曝した作業員の防護服は化学繊維の服、紙のカッパ、完全防水のビニールのカッパ。防護服というけど単なる粉塵避けのみ。これが放射線対策?信じられない。要するに放射性物質を体内に取り込まないようにしているだけで放射線を防禦しているわけではないのだ。

 作業員達の中には、どれだけ被曝したか分からないという声もあるようだから、将来、彼らに障害が出ることもあるだろう。震災の被害者もだが、この作業員達も確実に将来の面倒を看てあげる必要があると思う。

 福島原発の話はこれ位にして、からゆきさんについて。

 熊田忠雄著「そこに日本人がいた!海を渡ったご先祖様たち)」新潮文庫を読んだ。最近、日本人学生の海外留学の数が激減しているらしいが、昔、日本人が世界のはてまで進出していった状況を知りたいと思って読んだ。明治時代の進出、江戸時代以前の渡海、色々あるが、私がその中で注目したのは、海外に雄飛した日本人と一緒にからゆきさんも世界のはてまで送られていたのである。

 「からゆきさん」といっても若い人は何のことだか分からないかもしれない。分かりやすくいえば、日本が貧しかった1945年以前、農業従事者がまだ多かった時代、貧しい地方では、親が娘を売春斡旋業者に売り飛ばす、または、娘自らが家族の為に売りに出て、海外へと身を流していった女性達である。

 「そこに日本人がいた!海を渡ったご先祖様たち)」は、国ごとに22話より構成されるが、からゆきさんに関する話が出ているのは以下のとおりである。

 第一話 南アフリカ
 茨城県出身の古谷駒兵夫妻が、明治31年(1898)にケープタウンに上陸し、開店したミカド商会は18人の従業員を抱えるまでに繁盛する。
 ケープタウンに日本領事館が開設されたのは、大正7年(1918)であるが、この頃、海外娼婦の日本人女性二人が町に進出していたという。

 第四話 イタリア/パレルモ
 江戸娘の清原玉が、イタリアからのお雇い外国人であったラグーザ(現東京芸術大学の教授)と共に明治15年(1882)にイタリアへ旅立った際、シンガポールでからゆきさんを目撃し、彼女らのはしたない姿を見て、同じ日本人女性として恥ずかしい思いをしたという。

 第六話 ロシア/ウラジオストック
 明治17年(1884)3月のウラジオストックの在留邦人数は、412人でこのうち成人男子119人に対して、女性は倍以上の267人。
 この女性の多さは明らかに売春婦が含まれていることを意味するとあり、彼女らは長崎や熊本出身の女性が多かったという。
 明治22年(1889)には、娼家10軒、娼婦104人、明治39年(1906)には、娼家17軒、娼婦200人だったのが、まもなく娼家35軒、娼婦400人と異常な増加を示しており、「おろしや女郎衆」とも呼ばれたこれら出稼ぎ娼婦たちの故郷は長崎市周辺と島原半島、熊本県天草地方の貧しい漁村に集中していたという。

 第八話 マダガスカル/ディエゴ・スアレス
 熊本県天草の赤崎伝三郎が、家業が破産したためにその返済の為に妻を伴い海を渡って、アフリカへ向かう途中、当時イギリス領であったザンジバル島(タンザニア)へだどり着いた時、既にからゆきさんが10人ほどいたという。伝三郎夫妻が、マダガスカル島に着いたのが、明治37年(1904)1月であるから、その少し前のことであろう。
 また、伝三郎が島に渡った頃、既にディエゴ・スアレスから600km離れた西岸の港町マジュンガ(マハジャンガ)に二人の日本人女性が住み、醜業(売春)に従事していたとの記録があるとのこと。その6年前の1898年(明治31)頃、東岸中央部のタマタブ(トアマシーナ)にも2、3人の日本人娼婦の姿が見られたようだが、明治末年には姿を消したという。
 明治中期から日本人娼婦のアフリカ進出はめざましく、現在のケニア、タンザニア、モザンビーク、モーリシャス、南アフリカへとおよび、さらに内陸部のジンバブエにまで日本女性の影が見られたともいわれているらしい。彼女らはシンガポール、ボンベイ、コロンボなどからの「転戦組」であったという。

 第九話 ラオス/ヴィエンチャン
 ハノイ周辺には明治18年(1885)に死没した日本人女性の墓があると、入江寅次が『明治南進史稿』に書いている。

 第十二話 ミャンマー/ヤンゴン
 鎖国が解かれてから最初にこの国へ入った日本人は、からゆきさんで、明治14年(1881)には既に10人の日本人がビルマにおり、このうち6人が女性、同24年(1891)には69人(うち女性が49人)、さらに同34年(1901)には114人(うち女性は86人)と、常に女の数が男を上回っており、女性のほとんどはからゆきさんで、男の大半は彼女らを監督する者たちだったとみてよいという。
 時が経過し、日本政府は「からゆきさん」を近代日本の恥部として大正9年(1920)、海外廃娼令を発布した。

 第二十二話 セーシェル/ビクトリア
 モーリシャスの首都ポートルイスに1910年(明治43)4月、アルゼンチン独立100年祭へ向かう軍艦生駒が日本船として初めて寄港した。生駒には大阪朝日新聞の記者鈴木天眼こと鈴木力と大阪毎日新聞の大庭柯公が乗っており、二人は、取材合戦を始めた。
 鈴木がガイドをつかまえ、この島に日本人は住んでいるのかと尋ねるとガイドは「数ははっきりしないが、二名か四名の娼婦がいる」と答えた。鈴木は彼女らの実態を見に出かけ、「彼らの巣窟を馬車上より展望すれば卑猥、馬小屋の如き茶店なり。官憲の調査に依れば、該雑業婦は三名にして内、一名が紀州産、二名が肥前島原と諫早の者。その他に日本哥哥一名在りと云う。何処の人骨にや不明」と記した。
 一方、大庭は彼女らに直接会って話を聞き、「英領モーリシャス島の住民三七万余の中、同胞正に五人、男一人を除く外、残る四人は二二、三歳の婦人なり。此等の婦人に就ては僕、多くを語らざるべし、世に若し彼らの生活状態を悲惨なりといふ者あらば、そは(それは)見る者の過謬なり。否、彼等は他に同胞の競争なく、時々相当の送金を本国に致すを言ひて、極めて自家の運命に甘んず」(『南北四万哩』)と記している。
 さらに大庭は彼女たちから「10年ほど前に数人の日本人女性をこの島で見かけたが、そのあと姿を消し、今再び自分たち四人の仲間が住んでいる。かつていた数人の女性のうちの二人の墓がポートルイス郊外の菩提樹の下にあり、二人は少女だった」という話を聞きだしたという。

 からゆきさんの他に日本人が奴隷として世界中に売り飛ばされていた記述もある。
 第五話 メキシコ/アカプルコ
 1613年のペルー・リマ市の人口調査に日本人男女20人の居住記録が残っており、当時日本人を奴隷として盛んに世界各地へ送り込んでいたポルトガル人によって売買された者たちではないかという。

 第7話 ポルトガル/リスボン
 天正10年(1582)2月長崎を出発した伊藤マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンら天正遣欧少年使節は、ヨーロッパに1年8ヶ月滞在したが、その間に彼らは、ポルトガル人による奴隷売買も目撃していた。1571年に時のセバスティアン王は、「布教上の妨げになるから日本人の奴隷売買は禁止せよ」という勅令を発したが、ポルトガル人は日本人の買い付けを止めようとしなかった。少年使節たちも日本人奴隷がポルトガル本国のみならず、通過するヨーロッパ各地で賤業に従事させられているのを見て憤慨したという。

 第十一話 チリ/バルパライソ
 南米大陸に最初に渡ったとされる日本人の記録が、アルゼンチン・コルドバ市内の州立歴史古文書館に保存されており、それは1596年(慶長元)7月16日付の公正証書で、当時コルドバ市在住の奴隷商人ディエゴ・デ・リスボアが、ミゲル・ヘロニモ・デ・ポルラスという神父に日本人のフランシスコ・ハポンという奴隷を800ペソで売却したものであるという(『大航海時代夜話』井沢実)。また、1613年(慶長18)頃、ペルーの首都リマに日本人男性20人が住んでいたことが人口調査に載っているということである。

 私は、海外に出ると元気が無くなる。九州からだと上海や大連は、距離的には東京に行くのとほとんど変わらない。しかし、昔から外国に行くと非常に心細くなる。この状態を皆は笑うかもしれないが、あの源平合戦のとき、勇ましいといわれた源氏の兵士達が、平氏を追ってどんどん西国に行く途中に「もう帰りたい」といって泣いているのである。約800年前の話であるが、土着の生活をしている人間にとっては、日本国内であっても故郷を離れると泣いたのである。

 それが貧しさの為にアフリカまで体を売りに行かされた日本人女性達がいたのである。そのまま異国の地で亡くなった女性達も多かったであろう。好き好んで外国行ったわけでなく、慣れない地で過ごした彼女らの寂しさを慮ると非常に哀しくなる。

 さらに腹が立つのが、あのバテレン達は、日本人を奴隷としてヨーロッパや南米に売り飛ばしていたのである。やはり白人というのは油断のならないやつらである。神の話をしながら一方で日本人達を奴隷として世界中へ売り飛ばす。良く分かるであろう、キリスト教の神とはそんな物なのである。

(2010年4月10日 記)

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