東国原知事の徴兵制発言について

 東国原知事は11月28日、建設業者との座談会で「徴兵制があってしかるべき。若者にはある時期、規律を重んじる機関で教育することが重要だ」と述べた。また、座談会のあとで、「徴兵制とか軍隊とか言わないですけど、若者にはある時期、規律を重んじるような機関で教育することは重要だと思う。道徳や倫理観の欠落が、今の規律の喪失につながっている気がする」と報道陣に釈明した。

 またか、と思う。この手の発言は色々な人から結構発せられる。現代社会のモラルの崩壊の矯正を短絡的に軍隊生活と結びつける浅はかさ。素人の発言なら黙って見過ごす所だが、行政の長がこのような発言をするのは、自分自信の社会分析の不十分さを自ら暴露しているようなものだと思う。

 東知事は若者の道徳や倫理観が欠如していると言っているが、本当か。

 道徳や倫理観が最も欠如しているのは、若者ではなく、政治家や公務員や社会全体ではないのか。

 自衛隊の防衛事務次官であった守屋武昌は夫婦で自衛隊を食い物にした。業者にたかり、業者はその費用を自衛隊からの受注見積もりに上乗せする。守屋は国民の税金である防衛費用でゴルフ三昧していたのである。現在は守屋のことだけが問題になっているが、これは業者による利益誘導のための接待の氷山の一角なのである。防衛大学校を卒業して将来有力な幹部になりそうな人間には早いうちから業者が贈答品を送ったりしているそうではないか。守屋は国会の証人喚問で自衛隊全体は真面目で、悪いのは自分だと言っていたが、これは真っ赤な嘘である。守屋のように接待や贈答品にウハウハ言っている自衛隊幹部は相当数いるであろう。

 昔から貧乏人は命を投げ出すしかなかったが、旧日本軍隊上層部は黒幕や資本家と手をつないで良い思いをしていたのである。この構造は戦前も今日も全く変わっていないのではないか。最前線でいつも危険な思いをするのは、若者や平民。上層部は部下に命じて、自分は逃げたり。

 渡部洋二著『特攻の海と空(個人としての航空戦史)』文春文庫を読んだ。渡部はあとがきで『特攻隊のほとんどは、海軍は予備学生と予科練の出身者、陸軍は特操、幹候と少年飛行兵の出身者で構成された。率先垂範をなすべき海軍兵学校、陸軍士官学校出身の将校は相対的に少数である。海兵、陸士出身の将官、佐官が特攻攻撃の採用を決め、特攻要員を選び、特攻出撃の命令を下した。そして自分達の後輩に配慮した傾向は否めない。こうした高級将校、参謀が、一億総懺悔の合唱に隠れ、自己正当化の言葉をならべて戦後を生き延びた例は少なからず存在する。彼らが果たさねばならない責任から完全に逃れ、市民にまじって暮らす異常な事態が見過ごされてきた。・・・・私は1985年以来、ときには特攻推進者の実名を揚げ、自著にこのことを記述し続けてきた。望んだのは、彼らからの抗議である。それをうけて、公開の討論会を催し、連中の非道を摘出するのが願いだった。しかし、歴然たる反論は一つも現れず、二十余年がすぎ、糾弾の対象者はあらかた冥土へ去ってしまった。・・・・・』

 軍隊なんてこんなものなのである。真っ正直なものが馬鹿をみる。ずるがしこい上官は自分は安全な場所に身を置いて、危険なことを部下にさせるのである。責任はもちろん取らない。これは一部の話ではない。日本の軍隊全体の話である。満州にソ連軍が日ソ不可侵条約を破って進入してきたとき、関東軍は開拓民を放置して自分達だけ一番に逃走した。逃げ遅れた開拓民は自決したり、病死したりした。中国の日本人孤児はその時に中国人に預けられたり、拾われた子供達なのである。沖縄の集団自決も日本軍が命令しなくて、誰がすると言うのか。

 戦後多くの日本人がBC級戦犯として処刑された。約1000人位処刑されたらしい。この時も本来責任を取るべき上官はいち早く逃走し、命じられるままに行動したほとんど無実の人間が上官の身代わりになって処刑された例があったことは確実である。軍隊とは崇高な場所でもなんでもない。単なる人殺しの方法を訓練する場所であり、卑怯者上官が多く存在する場所だったのである。開拓者の一般市民を放置して自分達だけ逃げるのであるから、モラルも何もあったものではない軍隊は国民を守るものでもなんでもないことは明白である

 現在の自衛隊はどうか。不祥事続き。幹部連中は軍需産業と癒着して税金を食い物にしているし、現場では小学生並みのいじめもある。熱で焼けた船の甲板上に正座させてやけどを負わせたような事件も昔あった。まあ、彼らもやっぱり公務員である。そして旧日本軍の非合理的な精神主義が未だにはびこっているのである。自衛隊が日本国民を守ろうと言う意識がどれくらいあるか、疑問である。国民を守るよりも自衛隊と自分個人の利益を守ろうとする意識の方が強いのではないか。組織とはそんなものである。

 ここでもう一度言っておく。道徳や倫理観が最も欠如しているのは、若者ではなく、政治家や公務員や社会全体であると。

 私は随筆で中高年批判を繰り返してきた。特に現在の60〜70代は最低である。三輪明宏が大晦日にNHKのラジオで中高年の再教育の必要性を説いていた事は別の項で既に紹介した。このように感じていたのは私だけではなかったのである。若い者は他人を見て我が振り直すだけの柔軟性がある。しかし、中高年は精神がだいぶ固まっているから教育機関で徹底的に叩き直す必要があるのである。だから、腐った自衛隊で何を叩き直すか知らないが、万が一、自衛隊で教育させるならまず中高年を入隊させるべきである。酒ばかり飲んで運動も出来ない中高年を2〜3年自衛隊で物理的に鍛え上げれば、日本の医療費はだいぶ軽減されるであろう。当然、最も腐っている政治家連中を最初に叩き込むのは当然である。

 東知事の発言は政治家として無責任極まりないと感じるのであるが、その理由は以下の通りである。

 まず、道徳や倫理観の欠落というが、誰が欠落しているのか、なぜ欠落した社会になったのか、どうすれば道徳や倫理観を取り戻せるのか、どれ一つ明確にしていない。 

 最近のニュースを見ていると毎日不祥事だらけである。賞味期限の改竄使用材料の改竄建築設計の偽装。厚生労働省は消えた国民年金問題、直近では製薬会社から受け取った血液製剤でC型肝炎に掛かったかもしれない418人の肝炎患者のリストを放置していた問題。これに対し厚生労働省は『反省すべきだが、責任はない。』との回答。国が国民を守ろうとする姿勢が全く無いのである。その一方で国民には愛国心を持てだと?いい加減にしろ。

 若者がどうのこうのよりも社会全体の道徳や倫理観が欠如しているのであり、若者を第一に責めるのは大きな大間違いである。

 では、なぜ、道徳や倫理観が欠如した社会になったのか?

 一つは、国が米国追従の経済優先の政策を続けてきたこと、二つ目は元々日本では個人レベルでの道徳や倫理観が根付いていなかったのではないか、という事が考えられる。
 戦後昭和30年代、池田内閣の所得倍増計画に始まり、日本は“消費は美徳”といって、がむしゃらに経済成長を追及して来た。オイルショックでのトイレットペーパー買占め、田中角栄の日本列島改造論経済最優先で突っ走ってきた。それが1990年代のバブルの崩壊経済のグローバル化で日本は労働者の切捨てを行った。更に小渕元首相と堺屋太一は日本を完全に再起不能の借金大国にしてしまった。小渕元首相は亡くなったが、堺屋なんか何の責任も感じずにのほほんと生きている。宮沢さんは、何度か日本は既に破綻状態であると発言したが、政府関係者はその発言を押さえ込んできた。小泉は日本の財政がどうしようもない状態であり、その状態を脱することが必要と公表したことは評価できるが、構造改革と言いながら、全く手をつける必要の無い郵政民営化を実施し、弱者切り捨ての経済至上主義を導入した責任は思い。要するに“金儲けが全てに優先し、貧乏人は努力が足りない”と言っているのと同じなのである。
 金、金、金の社会を追求して、人間のあるべき論日本人のあるべき論世界のあるべき論を全く無視して、目の前の利権だけを追求してきたのが、自民党と官僚と経済界の人間達ではないか。それを無視して、今の若者を批判するのは、大きな大間違いであろう。

 では二つ目の元々、日本に個人レベルでの道徳や倫理観があったのか、という問題であるが、基本的に日本人には道徳も倫理観も無かったのではないか。それは、太平洋戦争が終わった時の状態を考えたらよい。戦時中あれ程、鬼畜米英と言っていた日本人が、敗戦後は手のひらを返したように米国になびいた日本人。一体何なんだと思う。日本人としての誇りも何も無いではないか。意地と言うものが無いのか。その点、アングロサクソンは凄い。何百年、何千年単位でものを考える視点を持っている。ルネッサンスが、古代ギリシャ・ローマの文化を見直す運動で、オペラは古代ギリシャの演劇の復興をベースにしていたということを最近知ったのであるが、彼らは自分達のルーツを大切にし、ねちっこくそれを守ろうとする姿勢があるキリスト、ユダヤ、イスラム教は同一の神を崇める一神教であるが、彼らの道徳、倫理観は宗教から来る。それに対して実質的に無宗教の日本人には、本来、道徳も倫理観も守るべき根拠は何も無い。道徳も倫理も人間社会を円滑に統一するためのものである。そう考えると日本人の道徳や倫理は『お上の言う事を聞く事』、この一言に尽きるのではないか。だから、太平洋戦争で負けて、社会が変わると、その政府の言う事を素直に聞く日本人。政府がアメリカと言えば、アメリカ大好きになる日本人。最初から日本社会に道徳や倫理観は無いのである。あるのは、平民は政府の言う事を聞いていればよい。それだけであろう。

 最後にどうすれば道徳や倫理観を取り戻せるか、であるが、上に述べたように元々日本に道徳も倫理も無かったのであるから、取り戻す必要も無い。これが結論である。しかし、あまりにも自分勝手な人間が目立ち始めたのも事実である。それを道徳や倫理観の欠如と言うならそれでも良い。

 道徳や倫理は基本的に社会を円滑に回すためのものであるから、社会人は最低限の道徳や倫理を身に着けておかねばならない。それは社会的立場が高くなるにつれて、当然、高度の道徳や倫理観が必要となる。一般人と政治家の道徳が同じであるはずが無い。一般人と技術者の道徳や倫理も異なる。政治家の方がより高い道徳性が求められるし、技術者も技術の社会への影響を考慮した専門的な倫理観が求められる。逆に言えば、社会からはじき出された人間には道徳も倫理も無いはずである。それは当然であろう。自分をはじき出した社会とうまくやっていく必要は無いではないか。彼らから見たら社会は敵なのである。しかるに近年、政府は何をしてきたか経済的強者はより強く、弱者はより弱くなる弱肉強食の政策を実行して来た。それによってはじき出された人間達がワーキングプアやホームレスと呼ばれる人々である。それだけでなく障害者や僻地の人々も

 経済最優先、地方も文化も切り捨ての行政をやっておきながら、近頃の若者もないであろう。道徳や倫理観を取り戻したいなら競争で人を蹴落とす社会ではなく、全ての人間が共存共栄できる社会を目指すべきである。はじき出された人間も結局は社会が面倒を見るしかないのであるから、最良なのは、人をはじき出すような社会を改めるべきである。道徳や倫理観を取り戻したいなら、経済最優先でなく、文化や人を大切にする政策を実行すべきである。まず、政治家が姿勢を正すべきであろう。身を粉にして国の為に働いている政治家がどれだけいるのか。田中正造のような政治家が。

 東国原のような政治化が、思いつきで何か発言する。極めて問題である。社会をより良くしようとするのが政治家である。政治家は社会の問題点を抽出し、その原因を追究し、改善策を練らねばならない会社で問題点を抽出して、システムを根本的に改善するのが管理職である。

 政治家である東が、道徳や倫理観の欠如の原因を追究もせず、安易な思いつきの改善策しか出し切らない。これこそ私に言わせれば、業務の怠慢であり、道徳心の欠如なのである。無責任大国日本。東知事、あんたも一緒。あんたが最初に自衛隊に行けばどうですか?どれくらい効果があるか、見てやるよ!

 そもそもあんた自身が、タケシ軍団時代からろくでもないことばっかりしてるじゃないですか。何回不祥事起こしてますか?あんたレベルの人間から説教なんかされたくないね。不愉快極まりない。調子に乗るのもいい加減にしろ。

(2007年12月2日記)

TOPページに戻る