弱い者いじめは蜜の味

 世の中を眺めると人は本当に弱い者いじめが好きなんだとつくづく思う。なぜ弱い者いじめが好きかと言うに多分、いじめることが楽しいのだろうと思う。ひょっとするといじめを快感と感じる遺伝子を人間は持っているのではないかと疑ってしまう。

 いじめられる側は基本的に弱者であり、少数者である。いじめる側は圧倒的に強者であり、多数派である。従って、いじめられる側の意見は世間に表明されることは少ないし、無視されることが多い。

 弱い者いじめも小集団の個別事象から社会的な事象、世界的な事象迄様々である。

 小集団の個別事象では、最近では、宝塚歌劇団宙組の上級生によるいじめと過重労働による自殺がある。宝塚歌劇団の組織体制に時代にそぐわない古い戦前時代のような風習が残っているのは周知の事実でり、それを積極的に改善しようとしない宝塚歌劇団の経営陣も大問題である。また、その内情に詳しいはずの宝塚歌劇団出身者達から何の告発もないのは当人たちがいじめる側だったからだろうと想像するしかない。

 学校に於けるいじめも社会的な問題である。いじめによる生徒の自殺が起こると学校や教育委員会はいじめを否定する例が多い。教育関係者にとって生徒の学校での安全で快適な生活の確保よりも自己保身の方が大切なのだろう。情けない話である。2022年度の小中高の不登校は29万9048人、認知されたいじめは68万1948件、自殺者は514人で統計がある1980年以降で最多だという。この状況に何ら手を打とうとしない政府。こんな状態で若者が子供を生もうなんて思うはずがないではないか。

 LGBTQもそう。
 俺は男だ、私は女だと多分90%以上の人間が自認しているだろう。しかし、昔、母から産婆さんの話として出生時に男か女か区別がつきづらい例があると聞いたことがあるし、最近の産婦人科医の話でも性別は完全に男女の区分が難しい例があるという。思うに統計的に見ると男と女という区別は結構明確ではなく、連続的に変化し、肉体的にも精神的にも境界領域に存在する人々がいるであろうことは想像できる。また、戦国武将の男色の話は有名である。最近の世界的な少数者の権利保護の拡散は良いことだと思う。
 美輪明宏なんかも相当苦労したのではないかと思う。美輪明宏はテレビで小学生の頃から知っていた。ヨイトマケの歌も小学生の頃から知っていたが、途中からぱったりとテレビで聞かなくなり、美輪明宏もテレビで見なくなった。放送禁止的な扱いを受けていたのである。近年になって紅白歌合戦で美輪明宏がヨイトマケの歌を歌ったが、隔世の感がある。

 国によるいじめと言えばハンセン病患者の隔離政策がある。ハンセン病は極めて感染力が弱く、隔離する必要性自体が無かったにも関わらず近年まで隔離政策を継続するだけでなく、強制的な断種、避妊手術を行うだけでなく、勝手に人体標本などを作ってもいた。今でも元ハンセン病患者がホテルに宿泊するのに抗議して死ねと呟く輩がいる。こういう輩は本当に弱い者いじめを心から楽しんでいるのだろうと思う。そもそもハンセン病に掛かった人には何の罪も無いことは明らかではないか。それなのにいじめる。心がひん曲がっている人間がこの世の中には山ほど存在するのである。

 部落差別も今も続いている。ネットで全国の部落の住所などを公表しているサイトもあるし、本で出版している輩も。そういうことに精力を集中する輩は何を考えているのだろうか。理解できない。

 弱い者いじめに奔走している一人が衆議院議員の杉田水脈(みお)である。LGBTQを生産性が無いと言い、在日朝鮮人やアイヌ民族を馬鹿にし、札幌と大阪の法務局から人権審判と認定されても全く反省もしない。この杉田水脈を自民党は重宝し、擁護しているのである。そもそも子供を生まないことを生産性が無いと言って否定するのなら、自分自身、娘一人しか生んでおらず、生産性が極めて低いのである。他人に生産性の話が出来る立場ではないだろう。また、己自身、もう子供を産める年齢でもないから生産性が完全に無いのである。生産性を強調するならあんた既に存在する意味は無いんじゃないか?と言いたい。

 教育において『弱い者いじめは卑怯な人間がすること』という意識を小学生時代から国民に叩きこむ必要があるのではないかと思う。

(2024年3月29日 記)

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