マタンゴとキスカ島

 小学生低学年の時は小さな町に幾つもの映画館があり、良く映画を見に行った。印象に残っている映画は、百一匹わんちゃん大行進、これは母と一緒に行った。それからゴジラ。そしてマタンゴとキスカ島である。

 マタンゴとキスカ島は、『マタンゴ』と『太平洋奇跡の作戦 キスカ』のセットで上映された2本の映画のことである。何故か知らないが、キスカ島のことは非常に印象に残っている。特に濃霧の中を日本兵の救出に向かった駆逐艦が狭い水路を進んでいく映像が記憶に焼き付いている。

 本屋で将口泰浩著「キスカ島奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯」新潮文庫を見付けて直ぐに買った。小学生の時に見た映画のキスカ島のことについて詳しく知りたいということとそれを指揮した木村昌福中将とはどんな人物だったかを知りたいと思ったからである。

 著者は、あとがきで次のような内容を述べている。
 日本の軍人は命ある部下をただの兵力としかみない無能な指揮官である牟田口連也のような人物しかいないのかと思っていたが、インパール作戦から生還したが、日本に帰らなかった元日本兵を追った『未帰還兵(かえらざるひと)』の取材で日本軍にこんな指揮官がいたのか、と初めて知ったのが木村昌福であった。死の直前、木村昌福が、書道塾の子どもたちにあて書いた随想は次のようなものであったという。
 『−人の上に立ってものをするとき、部下の者に仕事の一部を任した場合、どちらでもよい事はその人の考え通りやらせておくべし。そのかわり、ここはこうしなければ悪くなるとか、ここで自分が取らなければ、その人に責任がかかるという時には猶予なく自分で取ること。人の長たる者心すべき大事なことの一つなり−

 そもそもなぜアリューシャン列島のキスカ島に日本軍が派遣されたのか。
 日本軍はミッドウェー作戦の陽動作戦として昭和17年6月7日に米国領のキスカ島に日の丸を掲げた。翌8日にキスカ島の300キロ西のアッツ島に陸軍北海支隊が上陸した。しかし、実はその前の6月5日にミッドウェー戦で日本は惨敗していたのである。要するにミッドウェーで惨敗した時点でキスカ島とアッツ島への上陸作戦は無意味なものとなったのであり、当然中止されるべきであったものを硬直した頭の日本軍は上陸作戦を決行したのであった。その結果、アッツ島では約1年後の昭和18年5月29日に上陸した米軍と壮絶な戦闘の末、守備隊2500名以上が全滅し、「玉砕」という言葉が最初に使われた戦場となったのである。

 それではアッツ島玉砕の2か月後の7月29日にキスカ島守備隊5183名全員を救出した木村昌福少将とはどのような人物だったのか。

 木村昌福は明治24年に静岡市紺野町で近藤壮吉と鈴の次男として生まれ、鈴が木村木也の一人娘であったため、木村家の実家を継ぐ形で木村姓を名乗ることになったという。静岡師範学校付属小学校から県立静岡中学校に進学し、柔道部、弓道部、水泳部で活躍したらしい。明治43年9月12日に第41期生として海軍兵学校に入校。定員120名に対し、受験者3000人以上で当時の兵学校は旧制第一高等学校(現・東京大学教養学部)以上の超エリート校だったという。

 兵学校卒業は大正2年12月19日だが、成績は118人中107番だったという。海軍兵学校の成績は一生つきまとい、この時点で木村が将来、海軍大将や連合艦隊司令長官などの要職に就く可能性はほとんどゼロになった。大正9年に大尉に進級し、水雷艇艇長になる。木村が乗った「白鷹」は127トンで乗員30名ほど。年齢も階級も職種も違う乗組員が家族的雰囲気の中で、互いに助け合いながら勤務する独特の体質があったという。大正13年12月に大尉に昇進後、6年以内の大尉か少佐に受験資格がある海軍大学校を受験するが不合格となっている。
 昭和14年に特設水上機母艦「香久丸」(排水量6806トン、全長138m)艦長、昭和15年重巡洋艦「鈴谷」(排水量8500トン、全長197m)艦長。昭和17年のセイロン沖海戦では、「鈴谷」は敵輸送船6隻を発見して、9:52〜11:50の間に全てを撃沈したが、木村は高角砲で底部を狙い撃ちして、人的被害を少なくし船だけを沈没させる戦法を取り、さらに砲撃を受けた輸送船からボートが下されると木村は「撃っちゃいかんぞお」と乗員が退去したのを確認してから沈没させたという。

 ガダルカナル戦では「鈴谷」は、敵雷撃機9機の魚雷攻撃を受けた。航海長は次々に魚雷攻撃を躱したが、左右同時攻撃を受けた時、航海長が艦長の木村に顔を向けた瞬間、木村は「真っ直ぐに行け」と指示。この時の事を戦後次のようにしみじみと語ったという。『敵機の攻撃回避はベテランの航海長にまかせていたが、さすがの航海長も瞬間、判断に迷ったのであろう、私の方を向いた。私は間髪入れずに『真っ直ぐに行け』と命令した。われながらうまくいったと今でも思う。直進すれば、回避できるとは思っていなかったが、信頼する部下が迷ったときは、艦長として何らかの指示を与えて、自分の立場、自分の責任を明確にすべきだと思った

 この「鈴谷」の艦長として、開戦直前の昭和16年11月15日、兵学校を卒業したばかりの少尉候補生十人を受け入れた際の日記に若き士官となる心構えを説いている。
 ・自分達の勉強修得が第一 生徒の考えで兵員を殴打する等以てのほか
 ・甲板士官は乗員の世話をするつもりでやれ
 ・指揮監督の要件 怪我、過ちの防止
 ・分隊士は隊員につきよく観察すべし即ち人格有資格者をよくわきまえよ
 ・ただ形式、無意味に叱ったりするものあり
 ・若年兵の体力に関して注意せよ 保険保養の件

 著者は、「まさに開戦という逼迫した時期だが、兵への無意味な殴打や叱りつけなどを厳しく戒め、彼らの健康管理にまで気を配るように指導している。木村自身がこれまで行ってきたことでもあり、艦長自らがこの姿勢ならば、艦全体の雰囲気が目に見えてよくなるのは当然のことだった。」と述べている。

 一方、著者が指揮官として木村と対を成す存在と考えるのが、牟田口廉也である。牟田口は昭和12年7月に盧溝橋事件を起こし、それは支那事変になり、大東亜戦争にまで進展したのであるが、その挽回のためにインパール作戦を強行し、10万名の兵士のうち、3万名が死亡、戦傷病者45000名、多くは戦死ではなく、飢えとマラリアなどで死亡したと言われており、全く無駄な作戦であった。敗走する道ばたには日本兵の遺体が延々と連なり、その光景は白骨街道と呼ばれたという。牟田口は作戦が始まった二か月後には作戦続行不可能と判断したが、撤退を決断しなかった。この間、現地の師団長を全員解任している。解任された佐藤師団長について牟田口は残っている将校にこう訓示したという。「佐藤の野郎は食うものがない。撃つ弾がない。これでは戦争できないというような電報をよこす。日本軍というのは神兵だ。神兵というのは、食わず、飲まず、弾がなくても戦うもんだ。それが皇軍だ。

 牟田口について著者は書く。「敗戦後、牟田口は戦犯容疑で逮捕されるが、日本軍に甚大な損害を招き、英国軍の作戦遂行を容易にしたという理由で不起訴処分になった。かつての部下が語っている。「死んだ兵隊たちにすまなかったと頭を下げたことは死ぬまで一度もなかった。」部下の葬儀会場で自分にいかに責任がなかったかという手作りの冊子を配布したこともある。一度も自らの責任について言及せず、「作戦の失敗は部下のせい」という自己弁護に終始した余生を送り、昭和四十一(1966)年、七十八歳で死去した。」

 さて、本論のキスカ島撤退作戦であるが、木村は第一時撤退作戦は失敗するのである。そして第二次撤退作戦でキスカ島守備隊5183名全員を救出する。

 私は、木村昌福の生き方は現代の会社の管理職にも通じるものがあると考える。管理職としての責任と部下に対する思いやり。自分はどうか。良く考えなければならないが、もう時間が無い。

(2014年6月8日 記)

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