新国立競技場問題の本質

 2020年の東京オリンピックに向けた新国立競技場の建設費が当初の1300億円から2520億円に膨らむとのことから問題化し、7月17日に計画を白紙に戻すことが発表された。この間、文部科学省の下村大臣があたかも責任がアイディアコンペの審査委員長であった安藤忠雄氏にあるかのように説明を求めたり、安倍首相も当初は今更建設は撤回できないと言っていたのを急に白紙に戻したり、対応が出鱈目である。

 私はこの新国立競技場問題について以下の3点が特に重大だと考えている。
 @新国立競技場建設についての責任体制の不明確さ
 A東京オリンピックを招致したことの妥当性
 B経済破綻が視野に入る中で日本経済に対する旧態依然とした体質
 以下に順次説明する。

新国立競技場建設についての責任体制の不明確さ
 2520億円問題が当初話題になった時、足りない予算の補填先として、東京都が挙げられた。これに対して舛添東京都知事は拒否した。この時点では政府も自民党も費用をどうにか工面すれば済む問題と考えていたのであろう。私はこんな巨額の費用を投入する財力が日本にあるのか、国の借金が1000兆円を超え、税収が50兆円ちょっとしかない中でその0.5%に相当する箱物を作るという構想は無謀ではないかと感じた。
 世間の批判が高まる中で下村文部科学大臣の、デザイン審査委員長で7日にあった有識者会議を欠席した建築家安藤忠雄氏に対する「堂々と発言していただきたい」発言があった。安藤氏は会見で「大幅なコストアップの詳細は承知していない」と話した。そもそも文部科学省は何を安藤氏に任せ、何の権限を与えていたのか責任と権限が曖昧なままの議論である。
 また当初、今更変更はできないと発言していたこの発言は何だったのか。ラグビーW杯と森元首相の関係も不明である。未だに建設費の一部の政治家へのバックの裏話もささやかれている。
 そして、この間の議論で誰が責任者なのか、全く分からないのが最大の問題だと思うのである。太平洋戦争を誰が起こしたのか。それが曖昧なように今回の問題も曖昧なのである。舛添東京都知事は今回の問題に対して「皆、自分は悪くないと自己弁護。大日本帝国陸軍と同じ無責任体制」と評したようであるが、全く同感である。
 ところで設計見直しで費用は1800億円を想定しているようであるが、全く馬鹿げた話である。2520億と1800億は同等であろう。見直しに値しない。見直しというなら1000億未満であろう。これで新国立競技場に対する批判が収まるようなら世間もマスコミも間抜けである。

東京オリンピックを招致したことの妥当性
 2年前、東京招致の最終プレゼンで「おもてなし」や「安全」というPRを私は冷めた目で聞いていた。
 日本は地震活動期に入っていると言われており、マグニチュード8〜9の首都直下型地震や東南海地震の発生が高い確率で遠くない時期に発生することが予想されているそのど真ん中にオリンピックという巨大イベントを誘致する、その気がしれないのである。人は自分が死なないと思っているようであるが、巨大地震も来ないと思っているのであろう。
 こういう危険が迫っている日本にオリンピックを誘致することは、ある意味犯罪ではないかと思うのである。物事を悲観的に考える悪い癖かもしれないが。
 次に日本がまともな経済状態で2020年を迎えることができるのか、という問題である。アベノミクスで株価がバブル状態になり、日本国民の金融資産は1700兆円まで増大したようであるが、日銀が国債を買うのを止めた時日本はどうなるのか。いつまでも今のような状態を続けられるのか。バブルは必ずはじけて悲惨な状態になるのである。それともギリシャのようにオリンピックまでは、建設ラッシュで何とか維持して、オリンピック後に完全破綻するつもりか

経済破綻が視野に入る中で日本経済に対する旧態依然とした体質
 森も安倍もバラマキ体質で一向に日本経済を正常化させるという意識がない。国家の将来に渡る持続的な運営よりも自分のための目先だけの利益しか考えていない。だから相変わらず国の借金を増やして、ばら撒いて、支持率を増やすことしか考えていない。

 私のこの不安が正しいのか、気のせいか、オリンピックの頃には分かるだろう。その前にどこかと戦争でもしていたりして。

(2015年7月26日 記)

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