古希の祝い

 古希の祝い事をしてもらった。70歳になるので日本人男性の平均寿命が81歳であることを考えると後11年。男性の健康寿命は約73歳だから後3年である。

 そう考えると「めでたい、めでたい」と浮かれている場合ではなく、人生でやるべきことを早くやり遂げておく必要がある。まあ、子供も大きくなったし、親も3人見送って、闘病中の義母の面倒も見ている。やるべきことは大概やったのでもうあまりすることはないが、後は先祖の思いを次世代に伝えることが残された私の義務だと思っている。しかし、これが一番難しいのである。

 先祖の思いとは何か。貧乏な家だから財産と言うものは託されていない。そんな中で唯一託されたものは、先祖の法名と没年月日である。父が亡くなった時に、私が30代であったが、お寺に頼んで全て過去帳に記載してもらった。その時、過去帳に記載の先祖は17名。その後、母が亡くなったので現在は年忌法要をすべき先祖が18名いらっしゃるということになる。ただ、一番古いご先祖様は文久2年に亡くなっているので、もう150年以上経っている。50回忌を過ぎると50年おきに法要するのでそれ程頻繁に法要している訳ではない。

 少し前に本棚から古い仏教関係の本が出てきた。多分、30年以上前に親から預かったものであるが、私が本棚に放置して忘れていたものである。
 明治12年の浄土真宗の日常勤行聖典、大正2年の阿弥陀経訓読、大正7年の正信偈講義、大正13年の真宗聖典などである。真宗聖典は1000頁を超える本で相当熱心な浄土真宗門徒しか所有しないものだと思う。私も現在の浄土真宗聖典第2版を時々使用しているが、1500頁以上ある。大正7年の正信偈講義は自分も読んでみた。曽祖父と祖父が読んだ本を約100年後に子孫が読むとは当の本人たちも思ってもいなかっただろう。
 要するに私の先祖は熱心な浄土真宗門徒であったという事である。信教の自由があるので子供に強制は出来ないが、この思いと事実を子孫に伝えるのは私の最も重要な残された義務だと思っている。

 しかし、私がそうであったように仕事の現役時代は子供の面倒や生活に追われてそういうことを考える心のゆとりもないし時間も無い。両親とは比較的よく話をする方だったと思うが、「その話はもう聞いた」と何度か言った記憶がある。今考えると非常に申し訳ないことをしたと思うし、もう少し色々な話を聞いておけば良かったと思う。特に先祖の話はそうである。

 こう考えると私が子・孫に伝えたいことを伝えるためには何をすべきか明確になる。今、子供は生活に忙しくて、熱心に親の声を聞く暇が無いとすれば子供が歳をとって聞く耳を持った時の為に記録に残しておくしかないのである。そこで7、8年前から先祖の記録をまとめ始めた。そもそも私が受け継いだ過去帳の18名の中には「この人誰?」という人が載っているのである。私が知らない先祖を子・孫に押し付けるのは親として無責任である。それで古い戸籍を取り寄せて熟読し、古い墓石を調べ、兄姉に昔の話を聞き、島根の市立図書館に通った。この辺の事は既にどこかで書いたなと思って調べたら家系図(先祖の記録)作成に詳しく書いていました。

 最後に信心の問題がある。これはある意味、型から入るしかないかと思う。朝晩のお勤めや盆の墓参り等。親が熱心でその姿を子供に見せておけば少しは死んだ後に信心の事を気に掛けてくれるだろうという淡い期待である。そういう意味で島根の浄土真宗の葬式では参列者が正信偈を合唱するので良い風習だと思う。私も十数年前叔母の葬式に出席して、皆が正信偈を導師と共に唱えるのを見て、それから毎晩正信偈のお勤めをするようになった。福岡の葬式で参列者が導師と共に正信偈を唱えることはほぼ100%あり得ないのである。私の母の葬儀で私の従弟と私が導師と共に正信偈を唱えたら住職が泣いて喜んだ位である。

 従って私の葬式では参列者が押し黙って導師任せにしてもらっては困るので娘夫婦が帰省した時には夕食前に一緒に正信偈を唱えてもらうようにしている。いい迷惑と思われているかもしれないが。最近は孫が膝の上で正信偈の15分間じっと聞くようになった。いつまでこれが続くか分からないが孫の記憶には確実に残っただろうと思う。そもそも私が先祖にこだわる理由は多分3歳までの島根の生活で決まっていたのだと感じている。三つ子の魂百までもである。

 先祖の記録は初版を改定して第2版(65頁)を完成しているが、山の工事があって風景が変わったこともあり、さらに読みやすいように第3版を作り始めているが、気長にやるつもりである。今回の古希の祝いでは先祖の記録の要約版(古希の祝い資料)を作って少し話をした。

 最後に傍系ではあるが私の先祖の話を少し。

 浜田市で有名な庄屋さんに岡本甚左衛門と言う人がいますが、この庄屋さんは当時荒地であった七条原を開拓した人で、この岡本甚左衛門と一緒に開拓に参加した近江屋甚助が私の先祖の一人です。文政10年(1827)の水帳にも名前が載っています。この息子の甚吉は若い頃から品格優秀という事で浜田城の最後の殿様である松平武聡の傍に仕えたと親族に伝わっており、それは長州と幕府の戦争が迫った時期で浜田藩が戦争に備えて七条原新開に奥方等の避難場所の長屋等を建設していた事等を併せて考えると奥方や殿様の避難に備える為に徴集されたのではないかと想像しています。この甚吉が城勤めをしている時に城勤めが終わったら結婚しようと誓いあった羽野京との間に生まれたのが私の曾祖母です。そして、過去帳の中の「この人誰?」と思っていたのが甚吉でした。京さんは若くして亡くなり、甚吉さんは近江屋を弟に譲って自分は他家に養子に入りました。私の曾祖母は多分、しっかりと自分が両親の供養をしなければならないと思って法名等を我が家に伝えたのだと思います。

 過去帳のケフ慶応4年辰5月25日没行年27歳と言うのが甚吉とラブラブだった京さんでした。味気ない過去帳の記載ですが、調べてみると幕末の激動時代を生きた私の先祖の生活が生き生きと蘇り、それを伝えようとした曾祖母の気持ちも分かるような気がするのです。

 「親の心子知らず」と言いますが、自分もそうだったし、それで仕方ないと思います。今回作った「古希の祝い資料」の末尾は「喜寿の祝いに続く」です。まだ資料を作る元気があるか、どうか。

(2025年8月18日 記)

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